2012年のトピックスといえば、
恒例のように行われたAKB総選挙と、なぜか無理やりゴリ押しで行われた衆院選であった。
今回の衆院選が、非常にわけのわからない危なっかしいものであることはまた後日述べるとして、
どちらのほうが民主主義なんだろう、というと、これは難しい。
民主主義は、市民の多数派の意見が優先される、というだけのものではない。
客観的に正解がわからないという事項について、できるかぎり多くの意見を戦わせて洗練させて、
そのうえで合意(妥協)できないことについて多数派の意見を優先させようというものである。
結局今回の衆院選で、国民の「信」という名の多数決を必要としたのはなんだったのか。
というと、何もない。
目的もなく、なぜか「民主党政権はこのまま続けてよいのかどうか」というわけのわからない、
国民の意見は客観的に明らかであるが、それ以上でもそれ以下でもない、
いわば「どうでもいい」としか言いようのない議題のために、
私たち国民は2週間に及ぶ騒音と貼り紙の中で、見目麗しくもないよく知らない人たちの顔を見せられてきたのである。
大上段に振りかぶった「憲法改正」というものが、どれだけ意味のあることかを考えもせず、
「財政の健全化」とか「外交」とか、とくに政権を変えようが変えまいがあまり方針の変わらないものについて躍起になって、
結局なにがしたかったのかがわからない。
とりあえず、「誰かを追い出す」ためだけの選挙であるならば、
それは扇動政治体制であって民主主義ではなく、
何も考えていない市民を煽り立てて適当なことをするだけの政治であるならば、
もはや衆愚政治としか言いようがない。
このような状況で、この国の舵を切らなければならない、
現在の30代や40代の人々は、
わが子達の無邪気な顔を見て、
この子達に胸をはって、住みよい世界を引き継げるのかに、
疑問を抱いたり不安になったりしないのだろうか。
芥川龍之介が生まれたての子供に言った
かわいそうに、どうしてこんな娑婆苦に満ちた世界に
という無力感に包まれた言葉と同じような心境を感じろというわけではなく、
せめて、前向きに動かなければ。
少しそれがちになったが、結局もって今回の衆院選は、民主主義ではない。
この傾向は、郵政選挙のときには明確にあらわれていたが、
いよいよもって顕著になってきており、もはや同情の余地もない。
さて、ではAKBの総選挙は民主主義なのだろうか。
単純な人気投票であれば、「タレント議員」がいっぱい当選していた昭和末期から平成前期のこの国の「民主主義」的な総選挙と同じなので、まさしく民主主義ということになるが、
これではあまりに皮肉っぽいので、別の観点から考える。
まず、投票者が誰であるか、という点。
民主主義的な選挙というと、普通選挙、平等選挙、直接選挙、秘密選挙であると言われる。
これは、AKBのファンが1人1票ということはなく、CDやら何やらを買った分だけ投票権が与えられるというものだから、普通選挙であるかには多少疑問は残るものの、
直接選挙であり、誰に投票するかの秘密は守られているから秘密選挙である。
また、1つの選挙権ごとの1票の価値は同じだから、平等選挙である。
ただ普選か否かについては、事実上投票権を買う財力によって、選挙結果が左右されるという問題がある。
投票権を買うこと=国政でいえば税金を払うこと、によって投票権の数が変わることになるという点、投票権の値段が、一律でない点に問題があるが、
AKB側としては、ファンクラブの会員であるか、CDを何枚買ったかではなく、各投票権を一律に扱っているので、
対象をAKBのファンひとりひとりではなく、CDやらなんやらの「持ち主」ということにすると、それが偶然同じ人だったからといって、普通選挙でないとまでは言い切れない。
国政でいうと、CDを100枚持っている人は、地元の名士かもしれないし、大規模政党かもしれないし、その政党の裏にいる宗教団体かもしれない。
宗教団体が、特定の政治家を応援するパーティーにお金をかけ、そこに信者があつまったからといって普通選挙でなくなるということはないので、
そうすると、それと平衡にかんがえて、
ひとりのオタクが、大島優子さんをトップにするためにCDをいっぱい買って、そこでCDをたくさん持って投票に行ったって、普通選挙でなくなることはないということになる。
少し詭弁だが。
すると、AKB総選挙は実に民主主義的な構造の選挙だということになる。
さらに。議題は、というと、
次のCDで歌う人を決める、という客観的な答えのないものである。
大島優子ファンと高橋みなみファンが、どちらがどちらだ、と言い争っても妥協などできるはずがないから、
妥協点を多数決に見出すのは、きわめて自然な手段である。
そうすると、こちらは、どこかの国の衆院選と違って、
限りなく民主主義的な選挙だったということになる。
だから、あえて、
今国会はAKB以下、ということがいえる。
(国政にそれなりに関心のある人はAKBを下に見る傾向にあるので、屈辱的に聞こえるかもしれないが、AKBをそれなりに称えている立場からは事実を述べたにすぎないのでというように聞こえるかもしれない。
しかし、司法権に関わる人間として、「今」国会というところに、可塑性と一抹の期待をにおわせていることと、国会の価値とAKBの価値は、それこそ比較不能であることを十分に分かったうえでの発言であることを注意されたい)
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