先日結審した。
遺体を下水に流すという、おぞましい事件だ。
公判では、裁判員法廷でモニター等を使ったおおがかりな主張が行われた。
が。
ほんとにそれでいいのか、疑問の残る内容であったように思われる。
まず、前提として、
国民の司法参加のための裁判員制度と、
被害者の裁判参加は
同時期に導入されただけの別の制度である。
しかし、同時に行われる以上、相互の関係を無視してはならない。
その上で検討する。
まず、
刑事訴訟は、消極的実体的真実発見のためのものである。
つまり、被告人として呼ばれた者が本当に犯人なのか、犯人だとした場合、何をしたのか、を
検察官と弁護人被告人の主張を聴きながら判断する場である。
その結果、犯人とされた者がしたことに応じた刑罰が下される。
だから、事実の発見と量刑は別である。
裁判官および裁判員は、まず事実を発見しなくてはならない。
江東事件の場合、被告人が犯人だということは、
証拠上明らかだし、隣人の女性を殺害したことも明らかである。
その後、死体を損壊(傷つけ)し、遺棄した(埋葬せずにすてた)ことまで、明らかにしやすい事案であった。
そこで、被告人が何をしたのかを具体的に証明するべく、
モニターをつかったのまではよいが、
被害者の遺体の一部をモニターにうつしだす必要などあったのだろうか。
たしかに、遺体は、事件があったことを証する、もっとも有効かつ適切な証拠である。
そして、検察官は、遺族の了承は得たと述べる。
しかし、遺族にとっては愛娘の一部とそんなところで対面することは、地獄に等しいのではないか。
そして、今回は犯人性と犯罪性に異論のない事件だからよいとして、
被告人が犯人なのかに争いのある事件だと、
それだけで善良な裁判員は被告人に対して怒りと殺意を感じるだろう。
つまり、こうだ。
被告人が被害者を殺害したことは事実だ。
どのようにしたのかも明らかにする必要がある事実である。
しかし、全部が全部モニターに映し出せばいいというものではない。
証拠として写真を提出し、見てもらえばよいだけのことで、
目を背けることもできないような巨大モニターにうつしだす必要はないし、
しかもそこには肉親がいるのだ。
法廷をR指定の映画館にすべきでない。
また、事実認定と量刑は切り離すべきである。
遺体の一部がモニターにうつしだされて、被告人がうつむくのを見、遺族の嗚咽を聞けば、
それだけで被告人を死刑にしよう、という結論ができあがる。
事実がどうだったかなどという「些末な」ことはおいておき、
「たぶん」警察がちゃんと捜査しているだろうから…
と、弁護人側の意見を完全無視した上での筋書き作りがはじまりはしないか。
たとえば、裁判官や裁判員のところに、写真が1枚まわってきただけならば、
被害者の遺体があることさえ伝われば、極端な話、裁判員は見ないこともできる。
その内容に怒りを感じることはあっても、
被告人の反応も遺族の反応も見ないですむ。
その結果、冷静な判断による事実認定が担保される。
なお、そういった反応は量刑段階で見ればよいことなのである。
被告人質問のさいに被告人に写真を見せる、遺族には口頭で話をきく、
ということで十分に生々しい反応・意見は得られるのである。
それを見ながら、確信をもって犯人だと言える被告人に対する刑罰を考えるのが、
公平な裁判所なのではないか。
なお、被害者参加制度もこの延長線上に考えなければならない。
被害者自身が法廷に出られるときは、事実認定のうえで最有力の証人である。
しかし現場にいあわせなかった被害者の肉親は、
ある程度以上は事実を知らないはずである。
だから犯罪事実の認定、とくに被告人が犯人なのかの判断のさいは、ひとまず検察官に任せておいて、事実がどうであったのかを知る場にしておき、不足があれば補うというのが、
刑事司法上求められるのではないか。
反面、量刑判断や付帯した損害賠償請求の場では、被害者側の人たちを中心とした訴訟運営が求められる。
今回、担当弁護人は、
検察官も被害者遺族も被告人も死刑を望んでいるからと、死刑判決をかくべきでない、
と、無期懲役を求め、
検察官の芝居がかった訴訟活動に対しては、裁判所の冷静な判断を求めた。
この事件はどう考えても死刑相当だが、
弁護人が無期懲役を求めたのは、
新しい刑事訴訟に対する警笛ではないだろうか。
弁護士と検察官のプレゼン合戦となれば、
組織力、予算の面で有利な、しかも刑事事件ばかりしている経験豊富な検察官の独壇場となろう。
ただでさえ、素人の裁判員が数を占める中で、
感情に流されやすい判断がたくさん出ることが危惧されているのに、
よりそれをあおるようなプレゼンをさせるのはまずい。
モニターなどの機器はなるべく必要最小限の利用にとどめ、
冷静で公正な裁判所における、
被害者の心情に配慮した訴訟活動が求められる。
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