ある歌があった。
大空を飛びたい、大空へ、大空へ、
と、そう繰り返す歌詞と雄大なメロディーが素敵な曲だった。
ある指揮者はこう言った。
こんなに繰り返すのはな、飛べへんからや。
幼かった私は衝撃を受けた。
言葉の裏があるということは知っていた。
しかしその曲にこめられたメッセージが、そこまで強いものとは。
後年、ある作家が、こんな描写をしていた。
妻の心臓を持つ娘には、妻の記憶があった。
夫は、若き日の妻の心の底を映し出したような絵を見、知らず知らず一筋の涙を溢した。
偶然通りがかったその姿を見た娘は、
自分の心臓が、激しく切なく強く鼓動するのを感じた。
人にとって大切なものは、他人にはわからない。
それがただ、徳川を立てながら国をたてるのであれ、
自分の足で世界を見るのであれ、
家族とただ生きるのであれ。
他人には決してわからない。
だから、人は、他人の大切なものを奪ってはならない。
自分がされて嫌なことは、人にもしちゃいけませんよ。
子供なら知っている、これだけが真実だ。
他人の大切なものを奪ってまで守りたいものを、エゴという。
大切なものを守る方法が、別にあるとも知らずに、
他人の大切なものを奪うのは、人間ではない。
昔話に例えるならば、一匹の猿。
うすや栗や蜂なんかの、身の回りのものに殺される。
同級生殺し、死体遺棄の被告人に、懲役13年の実刑判決。
国民の処罰感情からすれば、当然の量刑となろう。
が、いささか厳罰に過ぎるとの批判も起こりうる。
人の命に対するコンセンサスは、
日本では歴史上最高に高まっている。
人は、死なないものとなったからだろう。
第二次大戦で前線に散った多くの英霊は、これを望んでいたかもしれない。
このような社会的風潮を受けるのが法律ならば、
厳罰化万歳である。
これについて、これが結果無価値(犯罪結果に価値がないから処罰する)論のせいだ、行為無価値(犯罪行為に価値がないから処罰する)論側から、抑制しなければならん、という学者もいる。
しかし、犯罪行為の処罰が、なぜ厳罰に結び付かないのか、まったく不明である。
変なところで他説批判を行う人だ、としみじみ思ったことがある。
たしかに、リベラルな立場から、厳罰は危ないな、という危惧があるのは間違いない。
しかし、今の国会の審理が、昔のように法律の良し悪しをじっくり話し合うものでなくなったから、良心ある者が止めることができなくなったので、仕方ない。
ぜんたい、処罰が重すぎるかどうかなど、受けたものにしかわからないのだから、説得力がないのだ。
ここで、最初の歌に戻ってみる。
処罰感情が高ぶるのはつまり、処罰が軽すぎると思うからだ。
なぜか。
同様に命の重みをさかんに言うようになったのは、命の扱いが軽すぎるからだ、と想像できる。
そしたら、軽んじるものは、うすとくりとはちに退治されろ、とこうなる。
余談だが、最近の高校生たちが「えらくなりたい」と思わないのも、
同じように考えると、
思わなくてもえらいから。
となる。
わたしたちは、
誰だこんな教育をしたのは。
という前に、自分を偉いと錯覚させるような、
背中を見せた自分を恥じなければならぬ。
馬鹿さ加減は、外から見るとわかるもので、
たとえば、総理大臣でさえ情けない背中しか見せていなければ、
憧れるものなどいない。
結果、偉くなってどうする、という考えが子供達によぎる。
人のふり見て我がふり直せ。
よく言ったもんだ。